平安貴族男性は「妻2~3人、さらに複数の妾と関係を持つ」

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平安貴族男性は「妻2~3人、さらに複数の妾と関係を持つ」のが普通という衝撃。なぜそんな「公認シタ夫」みたいなことが可能だったのか?

*TOP画像/道長(柄本佑)と倫子(黒木華) 大河ドラマ「光る君へ」12回(3月24放送)より(C)NHK大河ドラマ『光る君へ』の第11回のラストで、道長(柄本佑)がまひろ(吉高由里子)に「北の方(正妻)は無理だ」と伝える切ないシーンが先週話題になりました。そして本放送では、道長が倫子(黒木華)との縁談を進めたい意向を父・兼家(段田安則)に伝えます。『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、歴史上の人物の背景を深掘り解説していきます。今回のテーマは平安時代における「結婚」について。一夫多妻制が当たり前の平安時代。「北の方」(正妻)と「妾」の違いとは?平安時代、男性は二人以上の妻と妾をもってもよいとされていました。多くの貴族男性は2~3人の妻に加えて、複数の妾と関係を結んでおり、身分が高い男性ほど妻と妾の数が多かったと言われています。平安時代前期は妻と妾で扱いが大きく変わることはありませんでした。現代人は妾について“日が当たらない存在”といったイメージを抱きがちです。しかし、当時において妾は「妻」と呼ばれており、男性にとって愛する女の一人であることは正式な妻と同じでした。また、結婚によって勢力を拡大していた当時、正式な妻=最愛の女性とも限りませんでした。藤原道長に二人の妻がいたことはよく知られていますよね。しかし、正妻は倫子であり、明子は妾妻であるという見方もあります。倫子が産んだ子どもの方が明らかにはやく出世したことも、このように見られる理由となっています。しかしここで重要なのは、道長の妻は倫子で、明子が妾妻だったのか議論することではなく、妻と妾にはさまざまな見方があるほどあいまいな部分があるということです。いつの時代も男性には女心は分からない…平安時代の女だって嫉妬もするし、色ボケもする妻をもつ男性は夜ごとに他の女性のもとに通っていたと伝わっています。現代の女性であれば、たとえ社会的に容認されていたとしても、夫が違う女性のもとに夜ごとに通い、関係を結んでいたとなると穏やかな気持ちではいられません。自分に優しくしてくれたとしても「他の女性にも…」と思うと、夫の優しさを受け入れられなかったり、小言の1つや2つは言いたくなったりしますよね。平安時代の女性たちも同じで、夫が複数の女性に愛情を注いでいることに心穏やかでいられるとは限らなかったようです。また、いつの時代も男女の関係はよほど強い絆で結ばれていない限り、“露のごとし”なのかもしれません。夫が妻や妾のもとに通わなくなることも、妻が夫の訪問を拒否することも珍しくありませんでした。夫が訪ねてこなくなり、婚姻関係が解消されるようなこともありました。平安時代は「通い婚」だけでなく「妻の実家同居婚」も。だからこそ生まれた恋愛模様当時、結婚した夫婦は「妻方居住婚」(※)といって、妻方で同居するのが一般的でした(男性は妻の実家から他の妻や妾のもとに通っていたということになりますね)。兼家と道綱母、道長と倫子も当時の例にもれず妻側が用意した邸宅で生活していました。また、同居しない場合は夫が妻の実家に通うものとされていました。「通い婚」ですね。さらに、結婚披露宴も妻側がすべて手配し、妻の実家で催します。そして驚くことに、夫側の両親は披露宴に参列するとは限りませんでした。例えば、道長と倫子は息子・教通の披露宴に出席しなかったようです。これらのことからも、夫が妻の両親に気を配ることはあっても、妻は夫の両親と顔を合わせる機会すらあまりなかったのです。もちろん、当時の結婚生活について一部のみ見切り取って語れませんが、現代の女性にとって「妻方居住婚」や「通い婚」はうらやましいと言えるのかもしれません。特に、通い婚は現代人のライフスタイルや価値観に合っているはずです。近年、“好きな人と結婚したいけど、自分だけの空間がなくなるのはイヤ”、“私生活に他人が入ってくるのはイヤ”というタイプの女性は珍しくありません。例えば、俳優の天海祐希さんは結婚しない理由について「生活リズムができているので…別居するならいいかな」と心の内を言葉にしたことがあり、彼女の意見は少なくない女性から共感を集めました。当時の結婚制度や慣習の中には現代に組み込めるものもあるのかも…。※嫁入り婚は戦国時代から江戸時代にかけて広まる。【『光る君へ』について時代背景を踏まえて考察】まひろと道長は婚姻関係を正式に結ぶことはできないのかまひろ(吉高由里子) 大河ドラマ「光る君へ」12回(3月24放送)より(C)NHK道長は上級貴族でまひろは中下級貴族であり、貴族といえども身分が異なります。とはいえ、道長の父・兼家の妻は受領層(中下級貴族)の娘・道綱母(『蜻蛉日記』の作者)です。彼女の父・倫寧は摂関家の御曹司である兼家から「娘を妻にしたい」と直接申し込まれたと伝わっています。こうした事例もあることから、摂関家と中下級貴族が“絶対に結婚できない”というわけではありません。しかし、『光る君へ』におけるまひろと道長が婚姻関係を結べるかどうかは別の話。当時の正式な結婚は男性側も女性側も親が基本的には決めていました。このため、兼家が同意していないのに、二人が婚姻関係を勝手に結び、なおかつ兼家の傘下にある都で穏やかに暮らせるとは思えません。そして仮に、まひろと道長が正式な婚姻関係を結んだ場合、まひろの父・為時(岸谷五朗)が道長を迎え入れるにあたって自宅を整えなければならない、もしくは二人の住居を手配しなければならないのです。その他にも、為時は披露宴の諸経費を全額負担し、披露宴を正式な手順に従って催さなければなりません。さらに、為時が二人の結婚に協力すれば、彼はもちろん、弟・惟規(高杉真宙)の立場も懸念されます。道長は“披露宴もいらない、住む場所も自分たちでなんとかする”と言うタイプでしょうが、社会的に正式な婚姻関係を結ぶということはオトナの事情からそういうわけにはいかないのです。二人が正式な夫婦になるためには道長がまひろにかつて提案したように都を出て、「海の見える遠くの国」へ行くしかないはず…。参考文献・服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』・吉井美弥子『語りたくなる紫式部 平安宮廷の表と裏』・こさかべ陽子『よくわかる平安時代 寝殿造り』

OTONA SALONE

まぁ正妻に関しては政略結婚が当然だったからねぇ。好きに成った女性は通い婚が普通だしね。女性の側も当然の事って時代だから、今の様には成らなかったと思いますよ。現代ならば大騒ぎの修羅場だよねぇ(笑)
先代は現場現場に女アリで月イチで帰るのがふつうだった。公認の二号さんなんてヒトもいたが、母は病気になったり腹が減ったら帰って来るわとノンビリしたものだったなぁ。
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