もうすぐ6年 心の回復にも差

コメポ

もうすぐ東日本大震災から6年経とうとしています。その取材のため、被災地に来ています。「~から何年経ちました」というのは、アニバーサリー・ジャーナリズム(記念日報道)と揶揄され、メディアへの批判の一つともなっています。ただ。風化に抵抗し、出来事を記憶してほしい人もいます。日々、伝えるべきニュースがある中で、震災を忘れないでほしいという思いを込め、こうした手法で伝えざるを得ない面もあります。私もその一人です。



今回、取材で訪れた被災地は、当時の風景から変貌を遂げている場所と、当時の面影を残している場所があります。風化を防ぐために震災遺構を保存するか否かの議論があります。しかし、そうした議論の対象にもなってない場所でも、当時を思い起こせる場所があります。まったく変わらない場所を見つけると、不思議な気持ちになります。当時のことを思い返しことができ、津波被災を体感できます。一方で、復興という意味では、格差を感じます。人口が多い場所、大都市から近い場所ほど復興が進み、人口が少ない場所、山村・漁村ほど復興が遅れ気味のためです。



6年も経つと、多くの被災者が自立するか、仮設住宅から出て、災害公営住宅に入居していると思われがちです。しかし、同じ自治体内でも差があり、未だに仮設住宅で生活を余儀なくされている人たちがいます。復興を誰の視点で語るのかによって、見える風景が違います。



3月11日を前にして、取材が多くなる時期です。6年の歳月は、被災者の心の回復でも差を生み出しました。誰に話を聞くかで6年目の風景は変わってきます。もともと、被災自治体内でも、被災差がありました。そのため、当初から心の回復の差があったのです。津波被災地と、地震のみの被災地では、生活基盤が安定する速さが違います。自立再建か、仮設住宅なのか、あるいは元の場所に住むのか、震災前とは違う場所に住むのかでも違ってくるでしょう。



ある被災者が言いました。「記者に、この地域は、阪神淡路大震災のときと比べて、復興が遅いですね、と言われたんです。そんなことを私に言われてもね。阪神淡路の被災地と違って、こっちは交通の便が悪いし仕方がない。何度も来ていて、そういう会話になるならいいけど、初対面でいきなり声をかけられたんです。だから、その記者にはしゃべりませんでした」。その記者は被災地が初めてじゃないかもしれませんし、6年の間に、その方に声をかけたことがあったのかもしれません。しかし、復興の遅れを感じている人や、先行きが見えない人にとっては、特に関係性を築かないうちはナーバスな質問です。震災当初、丁寧な取材を続けていた記者も多かった印象を受けますが、メディアに傷つけられたという声がありました。6年目の今も、“記念日"が近い時期だからこそ、丁寧な対応が求められるのでしょう。自戒を込めたいと思います。



また、被災地から学ぶ、あるいは被災地を観光する手段の一つとして、語り部の活動があります。語り部と言っても様々なスタンスのものがあります。「被災当事者が語るもの」だけでなく、「被災はしてないものの、思いがある人たちが伝えるもの」などがあります。これまで被災地についてあまり知らなかったという人は後者はわかりやすいでしょう。全体の被災状況を知ることができます。一方、個人の視点で被災を知りたい人もいると思います。その場合は当事者の語り部の話を聞くことがよいと思います。



6年というと、当時小学校1年だった子どもが中学生になります。小学校6年だった子どもは高校を卒業します。それだけ長い時間が経ちましたが、大切な人・ペット・もの・風景をなくした人のなかには、時折、鬱になる人がいます。「もう6年経ったんだから、忘れなさい」などと言われることもあるようです。そうすると、余計に辛くなります。6年の間でよい出会いがあった人は、震災をポジティブに考えられることもあるようです。



阪神淡路大震災のときは、直後よりも5年後のほうがトラウマが激しかったと言われています。心の傷の後遺症はわかりにくいです。だからこそ、SOSやサインを出した場合、それに気づいたら話を聞くことも大切です。自分ができなければ、話を聞ける人・団体・相談窓口を知らせてあげることがよいかもしれません。

[執筆者:渋井哲也]

NewsCafeコラム

当時横浜で仕事していたけど、あれだけ離れていても揺れはすごかった。
都心機能も一時的にマヒ。
帰ったら部屋ガチャガチャ。

未だにニュースや特集番組に出てくる津波の映像が見れません。

離れていた自分がこんななのに、被災地の人はどうなんだろ?
冷たい様ですが
御高齢の 方は 仕方ないと 思いますが
何時までも 自立できない方って どうなの
甘え過ぎだと 思う
災害復旧で派遣されました。

作業中に震度5弱の余震で津波警報がでて高台まで逃げました。

津波はなかったけど緊急地震速報のアラームで震えが止まらなくなる。

被災地の人が感じた恐怖は忘れることはないと思う。
埼玉県民です。現在小6の息子は当時幼稚園でした。卒園式は防災頭巾を足元に置き、余震に怯えていました。小学校の入学式も、地震の心配をしながら参列しました。初めての給食はやっと用意できたパンとお茶。それでも被災地の方々の避難生活を思い、ありがたく頂いたのを覚えています。あれから6年経ったのですね。1ヶ月、一年、二年、六年…区切りとはいえ、そう簡単に気持ちは切り替えられません。悲劇を忘れない、支え合う気持ちを持ち続けたいです。
震災当時、私は仙台に引っ越してきてやっと4ヶ月半がたった頃で、子供は小学1年生でした。6年経とうとしてますが、当時の映像、特に津波の映像を見ると未だに涙が出て呼吸が苦しくなります。何時までも自立出来ない人は甘え過ぎだと言う意見もありますが、あの大震災で万単位の人が亡くなっていて(翌日、200~300体もの遺体が上がった海岸もあった)自分の目の前で大切な人が亡くなった方もいます。そのショックから立ち直れていない人がまだまだ沢山います。未だ行方不明者もいます。そんな状況の人まで甘過ぎるとか言われてしまうのは悲しいですね。震災直後よりも、5年後、10年後の方が大変だと言う事を理解して頂きたいです。
人それぞれなので、難しい問題です。自分は関東に住んでるけど、あの揺れは怖かった。未だに長く揺れると身構える。
私達も行きました。涙の中でのかたずけまたお年寄りの状態確認。子供は笑ってるがわかって欲しいのはそうしなければ乗り越えていけないから いじめ止めて!震災をうけた子供達あり得ない恐怖を未だにもつなか生きようとしてること。家でも一番親が子供に教えないといけないこと。出来ないなら人間止めて下さい。
私は阪神大震災経験者です
全て無くしたので忘れたい人間ですが無理なんですよ
6年経とうが10年経とうが、自然の猛威に恐怖を感じる事自体に変わりはない・・・。因みに今日も(夕方頃)熊本関連地震があった、ちょっと恐怖を感じた。自然の猛威は、もういらない。
宮城県気仙沼市から隣の岩手県一ノ関市に引っ越しました。気仙沼は唯一の交通手段の汽車の路線が復活しておらず、道路も砂利道のままだったり、建物の撤去も進んでません、通り過ぎられて三陸町に注目されたり大槌に目を向けられたりしています。東京五輪に資材を確保されてしまってることによる弊害です。この度家賃無料期間が過ぎ今の住居を出て父母は気仙沼に戻り私は引き続き岩手に住み独り暮らしとなりますが正直に言ってお金の工面が厳しいです。何か手当てみたいなの出してくれないんですか?知的障害の弟がいて仮説の住宅は無理だから普通の住宅借りたのに…
給料も一番少ない時期に打ち切られて困ります

page top